明治初期の征韓論を含む対朝鮮強硬論について

Writer: admin Type: ゃべり、雑談 Date: 2018-12-14 00:00
明治初期の征韓論を含む対朝鮮強硬論についてお聞きします。江戸時代 幕府は朝鮮外交使節団の朝鮮通信使を丁重にお迎えするなど一貫して朝鮮とは友好的な関係を築いてきました。対馬から江戸までの道中は 使節団の行列を一目見ようという人びとで街道は黒山の人だかりで、使節団の珍しい衣装や装身具はすぐに流行になったとか。また江戸城でも粗相の無いようにと幕臣たちは幕府の威信をかけて朝鮮通信使を接待したそうです。明治まではこのように官民ともに朝鮮に対して友好的な関係だったのに なぜ明治になって朝鮮の政治に対してくちばしを入れることが当然だというようなムードが出てきたのでしょうか?明治政府が朝鮮に送った親書に対してすぐに返事をしなかったとかいろいろあるようですが、親書の内容が国益に反していれば 国内的にも調整が必要になるし すぐに返事ができないのは当然だと思います。また自分たちも幕末から明治初期、外国から様々な不当な圧力を受けて右往左往してずるずると回答を引き延ばしたりという体たらくだったのに 明治になった途端に朝鮮に非常に厳しい態度で臨んでいます。 征韓論はもともと西郷ではなくて板垣の持論だという説もありますがいずれにしても江戸幕府の対朝鮮外交とは真逆に見えます。明治になってなぜこのような厳しい対朝鮮外交政策が表に出てきたのでしょうか?補足皆様 ご回答をありがとうございました。江戸時代 朝鮮とは友好な外交関係を築いていた日本。奈良時代から仏教や儒教など当時の先進国の文化や技術の多くは 朝鮮を経由して日本に入ってきた。江戸幕府は朝鮮通信使を 儒教の先輩国である朝鮮から特使として 粗相のないように準備には相当念入りに時間をかけたそうで当時の記録にも残っているそうです。歴史上 日本から朝鮮へ侵略はしても 朝鮮から日本に軍隊を派遣したことは一度もない。にも拘わらず 明治になった途端に 朝鮮をまるで日本の朝貢国のような扱いになぜなったのか? よくわかりません。共感した0###少なくとも明治政府の参議達の考えでは、朝鮮をそのままに捨て置くことは、日本の安全保障上危険であると解釈したからに他なりません。一方で、世論や在野の壮士の間では朝鮮は日本との国交を拒否するとは無礼であり、直ちに征討するべきだという論が沸騰していきました。>征韓論はもともと西郷ではなくて板垣の持論だという説もありますがいずれにしても江戸幕府の対朝鮮外交とは真逆に見えます。板垣退助の主張はよく開戦論であるとか、強硬論であるとか言われますが、居留民保護のために一大隊を派兵し、その後談判すべきであるという意見でした。板垣は森山茂や佐田白茅からこのまま放置しておけば居留民が暴発するかもしれないという報告を受けており、早急に朝鮮問題を解決すべきであると思っていた矢先、朝鮮で日本人と関わるものは厳刑に処すという「排外令」が出され、居留民に危害が加えられるかもしれないという緊迫した状況となった中で、閣議に議題が上り、上記のような主張をするに至るわけです。板垣も朝鮮の態度は無礼だし、なんならこのまま征討すべきであるとは心底思っていたようですが、兵力に訴えるのは国の大事であるという冷静な判断を持っていました。派兵の後、朝鮮と日本はこれから同心協力しなければならないのだから公使を派遣して朝鮮をあくまで説諭し、条約締結してあくまで平和的に解決すべきであるというのが板垣の主張であり、これが最大の目的でした。このように、板垣とて何も朝鮮と一戦したいとか征服したいとか、そういう考えではありませんでした。ですが、派兵は先方が誤解する怖れがあるし、戦争となる可能性がある、そうなれば当初の方針と違ってしまうではないかと板垣の主張に反対したのが西郷です。西郷は非武装で衣冠束帯の正した全権大使を派遣して交渉し、先方がなおこれを斥けたり、害したりした場合に至って派兵をすべきではないかと主張し、これは公明正大な意見であるとして板垣や江藤新平、後藤象二郎はこれに賛同したのです。よく西郷隆盛の目的はあくまで朝鮮との開戦であって、その大義名分を作る為に自分が殺されに行こうとしただけであり、平和的に解決するつもりはなかったなんて言われてますが、本当にそうだとしたらなぜ板垣は自分や西郷の主張が「征韓論」と呼称されることに嫌悪感を抱いたんでしょうね。今でこそ「使節派遣→暴殺→派兵」も征韓論と見なしますが、当時にあってはそのような主張を征韓論とされる事自体が当人達には認識がなかったのではないですか。板垣ばかりではない、西郷隆盛の主張だって「征韓論というが初めから征韓ということではなかった」「樽俎折衝にあった」「征韓論にしてしまったのは穏やかではない」と言っている直接西郷を知る関係者の証言は少なくありません。これはつまりどういうことかを考える必要があるでしょう。そもそも、西郷隆盛の『遣韓使節決定始末書』を率直に読めば、目的とする所は板垣と同じであり、何より初めの閣議から一貫した主張であることがわかります。ナイス0
###ありがとうございました! m(_ _)mまさに明治政府になってから なぜ「世論や在野の壮士の間では朝鮮は日本との国交を拒否するとは無礼であり、直ちに征討するべきだという論が沸騰」となったのか理解できないところです。征韓論という名前は当時か後世の人たちによるネーミングか藻知れませんが、非常に居丈高ですよね。「無礼」という言葉は 相手を格下扱いしているからこその発想です。例えば武士が町人や農民に対して無礼といってもその逆はない。そもそも外交は国同士の洗練されたケンカですからそれなりにケンカ作法があるのに 期待通りの結果が得られないからといって 相手を無礼呼ばわりというのは まったくお粗末で知性がない証拠だと思うのです。
###ご回答ありがとうございました。「格下に見ていた」というご指摘をいただきましたが まさに 短期間になぜそのような掌を返したよう発想になったのか、その裏にはなにがあったのかよく分からないのです。教えていただいた西郷どんの本を読んでみたいと思います。他の皆様のご回答も大変勉強になりました。繰り返し読んでいます、どうもありがとうございました!m(_ _)m###徳川幕府が、莫大な費用をかけて、朝鮮からの使節を応接したその目的はさておき、そもそも朝鮮が日本との国交を拒否した理由に「書契問題」があったのはご存知ですかね。日本からの国書に『皇』とか『勅』とか、朝鮮側の「理屈」では中国の皇帝だけが使うべき言葉があり、『それは、徳川幕府との間での対等な外交関係とは違う』、『朝鮮に対して、上に立とうとするものだ』という理屈で拒否した事を言います。が、これは、当時の日本人からすれば、幕府とは対等な付き合いをしていたのに、新政府とは拒否した、という事に他ならず、「幕府とは結んでいた国交を新政府と結ばのは、俺達をバカにしているのか?!」という事になる訳です。おまけに、当時の朝鮮はゴリゴリの攘夷派だった大院君が実権を握っていて、日本人を「ヨーロッパかぶれして野蛮人に成り下がった奴等」みたいに扱った、というのも『バカにしているのか!』意識を強めた原因です。そして、そういった朝鮮での『攘夷』の矛先が、幕末の日本で外国人に危害が加えられたのと本質的には朝鮮での日本人に加えられる恐れもありました(と考えられました)。政府内での征韓論の「ハシリ」として割と知られているのは、明治三年(1870年)に「書契問題」で紛糾していた朝鮮との国交樹立交渉の為に派遣された政府使節の中の旧久留米藩士佐田白茅が帰国後に書いた建白書で、国立公文書館アジア歴史資料センター(以下アジ歴)で見られます。(レファレンスコードA01100124300の9~11/22です。ご自身でご覧になられる場合は、↓にレファレンスコードを入力してリンクを辿って下さい。)https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/referenceその10/22にある、況朝鮮蔑視皇國、謂文字有不遜、以興耻辱於皇國、君辱臣死、実不戴天之冦也、必不可不伐之、不伐之、則皇威不立也、非臣子也といったあたりが、その『発想』を良く示しています。日本側が『皇』と言った文字を使う事を「不遜」と言うのは、朝鮮が皇国(=日本)を蔑視しており皇国に恥辱を与えた、という事だからして、君主が辱めれば臣下は死すべきで、実に天を戴けない(=死ぬほどの)冦(あだ)であるからして、必ず朝鮮を伐たねばならない、もし伐たなければ、天皇の権威は崩れ(自分達は)臣下ではない、というものですね。政府の使節自身がそういう「発想」の持ち主でした。因みに、(本人曰くですが)佐田白茅は国立国会図書館デジタルコレクションで見られる明治36年8月出版の自著『征韓論の旧夢談』のP7~8で、朝鮮は応神天皇以来(朝貢の)義務がある国であるからして維新の勢いをかって速やかに手に入れるべきである、という主旨の建白書を明治元年に政府に差し出した、と言っています。それが事実ならば、幕末の武士、特に攘夷派に強く見られた『過去の日本の歴史の中に朝鮮半島に一定の支配権を持っていた事を水戸学などを通じて知り、それとアジアへの列強の進出の脅威と合わせ、『日本は積極的にアジアに進出すべき』と考える発想(例:橋本左内)を、佐田白茅自身も元々持っていて、そうした人物が朝鮮との外交交渉に送り込まれたから、(ある意味では当然の結果として)『侮辱された』と憤激して派兵すべし、という事になった、とも言えます。そういった、国学・水戸学の立場からくる「征韓」は、政府内ではなければ、例えば、弘化三年=1846年(筆写はその翌年)に国学者の近藤茂樹が書いた『征韓起原』という本が国立国会図書館デジタルコレクションで見られるぐらいです。この本でも、やはり、神功皇后のいわゆる「三韓征伐」から話が始まっています。実際、国立公文書館アジア歴史資料センターで、士族が政府に充てた征韓論の建白書がいくつか見られます。更にその中のいくつか「名前」だけご紹介しておきます。()内はレファレンスコードで、↓にそれを入力してリンクを辿るとどなたでも読めます。(但し、手書きでカタカナ交りの漢文調なので、読み易いとは言えませんが…)https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/reference 『白川県士族有馬源内外三名建白征韓先鉾ヲ乞ノ議』(A01100095800)『陸軍大尉横田弃建白征韓ノ議』(A01100095900)「佐賀県士族稲垣速見建白征韓ノ議』(A01100096100)大真面目に、「日本を夷狄扱いした」、「天皇陛下が侮辱された」、「元々朝貢国だったのに、それを長年サボった上に、天皇の命令を拒む(=国交を拒否する)とは何事だ」、だから、朝鮮を討つべし、といった事が書いてあります。要するに、そういうメンタリティを持った人達がたくさんいた、という事です。勿論、そういう意見がバンバン士族から出たのは何故か、その背景にあるものは何か、というのはまた別の話ではあります。西郷隆盛は、「戦争を起こす大義名分の為に自分が使者になる」という趣旨の事を、何通かの私信で述べています。その中の一つをご紹介します。板垣退助宛明治六年八月十七日付け書簡からの引用です。~~ 「戦は二段に相成居申候。只今の行掛りにても、公法上より押詰候へば、可討の道理は可有之事に候へ共、是は全言訳の有之迄にて、天下の人は更に存知無之候へば、今日に至り候ては、全戦の意を不持候て、隣交を薄する儀を責、且是迄の不遜を相正し、往先隣交を厚する厚意を被示候賦を以、使節被差向候へば、必彼が軽蔑の振舞相顕候のみならず、使節を暴殺に及候儀は、決て相違無之事候間、其節は天下の人、皆挙て可討の罪を知り可申候間」 大意「戦いは、二段階になる。今の状況でも国際法上は朝鮮を討つ道理はあるが、世間の人はそれを知らないから、隣国としての付き合いを軽視する事を責めて、これから仲良くしようという使節を送れば、きっと朝鮮はそれを軽蔑した振る舞いをするだろうし、使節を殺すのも間違いないあろうから、そうすれば世間の人も朝鮮を討つべきその罪を知るだろう。」、 「内乱を冀ふ心を外に移して、国を興すの遠略は勿論、旧政府の機会を失し無事を計て、終に天下を失ふ所以の確証を取て論じ候処」 大意:「内乱を望んでいる心を外に向けて、国を興す戦略は勿論、徳川幕府が機会を失して事なかれ主義の対応をした為に、ついに天下を失った理由を証拠として論じてきた」~~「内乱を冀ふ心を外に移して」というのは、当時の状況からすると、士族の反政府感情の事を言っていると考えられます。そして、実際に明治六年の政変後まもなく、江藤新平をかついだ士族反乱が起き、その最大のものが西南戦争です。ただ、西郷の「士族の不満を外征に向けよう」という“一石二鳥”の主張は、政府首脳だからであって、世間にあった「征韓論」はそういうものではなく、要するに「バカにすんじゃねぇ」ってものでした。(おまけ)今から四十年程前に、毛利敏彦という学者が「西郷隆盛は征韓論ではなく遣韓論(=つまり外交的な解決を主眼に置いていた)」という主張を発表しました。非常に簡潔に言えば、西郷の発言のうち、留守政府内の(今風に敢えて言えば)閣議での発言が本音で、板垣退助に送っていた私信は、板垣に迎合して自分が使者に立つ事を支持してもらおうとしたものだ、と解釈した訳です。超基本的な一般常識として、閣議のような公式の場と私信でどちらに本音が出るか、というのは言うまでもありませんし、おまけに西郷は、既に使者を送る事自体は留守政府内で決まった(=板垣も居留民保護の為の派兵&使節派遣ではなく、使節派遣を先行させる事に了解していた)時にも、西郷は板垣に「迎合」して(言い換えればウソをついて)征韓論者のフリをしつこくしていた、という事になります。かなり意味不明の迎合であって、毛利敏彦の解釈は、かなりムチャクチャではあります。ネットでは、未だ不思議な『人気』があるようですが、学者の中では(毛利敏彦が亡くなった事もあり)「かつて、そういう事を言っていた人はいましたね、たしかに…」みたいな扱いになっている、と理解しています。ただ、西郷の当時の書簡が頻繫に「死」に触れていた事から、体調が悪かった事もあり、派兵そのものよりも、むしろ「自分が朝鮮に行って死ぬ事」に西郷にとっての重要性があったのかも、という説ならあります。だから、使節派遣自体は決まった後も、板垣に対して繰り返し「自分を使者にしてくれ。それを政府内で支持してくれ」と言っていたのだろう、と解釈する訳です。それから、江戸時代の朝鮮通信使は、例えば新井白石が(屁)理屈を捏ねて、日本国大君を国書で名乗るとそれは朝鮮では国王よりも格下を意味するので、《対等》である為には日本国王を名乗るべきだ、と主張し、事実一時期そうなった事にも現れているように、外交関係としては対等でした。ただ、民間の記録では「朝貢使」と認識して居るものが少なくありません。また、朝鮮からの使節自身の記録でも、むしろ幕府は朝貢使と認識される事を歓迎していた(誤解を解こうとはしない)が、それに文句をつけると面倒な事になるからしなかった、といった主旨が載っているものもあります。所詮は、将軍や国王の代替わりの際などの「挨拶」のやりとりなので、「挨拶」さえすればよいのなら、日本側からの使者が対馬から行って(ほぼ全ての場合)朝鮮側に上陸したのと同様の扱いでも済む筈です。それを、莫大な費用を負担して大人数の使者を賑々しく行列を組んで江戸まで来させたのは、「朝鮮も朝貢に来た」という印象を世間に与える目的があったのだろう、というのが一般的な考え方と思います。琉球からの使節と同じですね。ついでに言っておくと、朝鮮を清が属国扱いしているから、朝鮮と国交を開くと「下手をすると日本が属国待遇されるかも」なんて、素っ頓狂な発想が当時にはなかったから、日本政府は朝鮮に開国を要求したのだし、米国も同様でした。ナイス0
ico_check不適切な投稿でないことを報告###あなたの言うとおりだと思います。単なる西郷が海外視察に行きたかっただけのエゴというのが実際だと思います。大久保は慎重でした。狙いは清国との対等同盟です。ロシアの南下に対処する必要がありました山県や川上はその事を念頭にしています。なので清国の属国の朝鮮と下手に変な交渉をすると清国との交渉に問題が起き日本は清国の属国待遇を受けかねません属国扱いとは言いませんが属国待遇ということですですから西郷の言う「礼を尽くして道理を説けば」というのは最もやってはいけない交渉です。「上から目線で条約を結ばねばならないが、朝鮮が態度を硬化させるとやっかい 砲艦外交をとるには日本はまだ体制が整っていない ここはまだ様子見で、日本の改革を知らせることで、時流を見てらうに留める」相手に対して時間を取らせるという大久保の考えの方が正しいと思いますこういった流れが後の韓国独立か併合かの流れに繋がります。ナイス0

 

TAG